心で伝える人生

弥生3月か! 何故か心躍る季節ですね・・・
しかし、昨今はあの大震災がそうであったように実際にいつどこで何が起きるか分からない
世の中になりました!
どこで何が起きても変わって欲しくないのが人の心。 「せちがらい」・・・という言葉がありますが、1年と言わず1ケ月でも世の情勢が変わってしまう時代になってしまいました。
北海道新幹線がまもなく本州から北海道直通となります。 後は九州と沖縄を結んだらなんと北は北海道から南は沖縄まで電車は直通(陸続き)です。
いつの日か、九州と韓国が繋がるなんて夢でもなさそうです。 それどころか宇宙にだって一般人が旅行する時代がやって来そうです。便利になることは素晴しいことです。
昔、私が高校生の頃、修学旅行で奈良に行ったときのことをよく覚えています。 奈良の薬師寺。そこで聞いた高田好胤館長のこんなお話しに出会いました。
「昔はお母さんが洗濯板でゴシゴシと私の衣服を汗ぬぐいながら洗ってくれたものです。今の皆さんは洗濯機の中に入れてスイッチを押すだけ・・・! ここに愛情が感じられるだろうか・・・」と言うお話しでした。
便利さが豊かさとまで今では言っているようですが、この便利さが全ての愛情や思いやりを奪っていると言いたい高田館長でした。
昭和から平成に変わり、世の中はそれどころではなくなってしまいました。 何もかもが便利さの追求です。 経営者も段々とそんな中で育った人が増えているようです。
これらの便利を生みだしている科学者や研究者は素晴しいことに挑み結果を出していることには違いありませんが、つまり要は使い方です。
間違いなく使い方を間違っている若者が多くなっていることは事実です。 言い訳をするにもそれが調子良さに変わってしまっています。
もっと言えば、それは怖い自己中心的な人間へと生まれ変わっているということです。

残念なことに、利用している本人はそのことに気付いていないようです。気づいていないからこそ横断歩道でも電車内でも授業中でもスマホ等に夢中になれるんですね。
何が残念かと言えば、「心を失っている」・・・ということです。
本当はたいへんなことなんですよ! 毎日と言って良いほど殺人事件のニュースが流れな
い日はないと言っても過言ではないほどです。
その原因は一体何なのでしょうか!!  希薄になった父親像。 勿論マイナスばかりとは言いませんが、つまり便利さの使い方でしょうね。
良く考えてください。 使うのは人間です。 挨拶ひとつにしてもきちっとした挨拶の出来ない人は五万と居ます。
同じマンションに住んでいても挨拶の返らないのには驚きですね。

私がスマホを使わないから言っているのではありません。 しかし、私はパソコンの前にほぼ1日座っています。 便利さを正しく使っている自負心はあります。

電車に乗っても、まず70%はスマホを見ています。 少し嘆かわしいくもなりますね。
先程、薬師寺の高田好胤館長の話しを引き合いに出しましたが、絶対に一理あると思います。
人は感情があっての代物です。 悲しいも嬉しいも、悔しいも、有難い・・・も。
好きとか嫌いとか、美しさに会えば癒される。 それが人間ですね。
まして、我が子を監禁したり折檻の末死に至らしめるなどとても人間のすることではありません。 でも悲しいかな多くなっているのは事実です。
ニュースなんかも、人の幸せよりも事件を追い求める傾向そのものも問題があります。
前置きが長すぎましたが、言いたいことは何を相手(ひと)に伝えて生きて行くかということです。
今から30年も昔、故郷でこんな出来事がありました。 当時はまだ携帯電話すら無かった時代です。 お盆休みだったと思います。 その田舎町では評判のいわゆる悪い子のグループがいました。 親でも手に負えないと言うんだから凄いものです。
お盆に自家用車にその悪童と呼ばれる未成年が定員オーバーで7人ほどが乗り合わせ、国道を我がもの顔で走っていたときのことです。
大音量(音楽)でクラクションを鳴らし続け、酔っ払い運転だったそうです。信号を無視し、スピード違反のその車はハンドル操作を間違え電柱に激突。全員即死でした。
しかし、ここからが問題です。町の誰もが、というより驚いたのが両親すら涙ひとつ見せなかったそうです。
この頃はまだそれほどの便利さは無かった筈です。 つまり、人の心の持ち方そのものの大きさを問われた大きな事故でした。

あれから30年後の今、私は嬉しいことにそうした若者とは真逆な、人一倍人の心を大切にしている一人の女性をサポートしています。
だからこそでしょうか・・・、集まる若者の期待に添えるその女性、つまり波島陽子の周りは温かな心でいっぱいです。 勿論、まったくの現代っ子でまだまだ礼儀に疎い若者も居ますが、この教室にいる限りにおいては素敵な女性になろうと一生懸命です。

波島流を立ち上げて10年になりますが、家元波島陽子の創作作品は全国各地の日本舞踊愛好者から愛されその作品を利用して戴いております。
私はここでふと思うことがあるんですね! それはどうしてそれらの作品がこれほどまでに支持されるかということです。
1年1年、年月を増す毎にその愛され支持される理由がはっきりしてくるのです。
それは日本舞踊本来の姿、美しさそのものなんですね。 創ろうと思って簡単に出来るものではありません。 つまり、それこそ人として大切な心がそこに潜んでいるからに他なりません。
それが、しぐさとなり、美しさとして表現されている秘訣なんです。
感動は、相手に伝わってこそです。 お弟子さんや頑張りたいと夢みている生徒さんは沢山います。 しかし、毎日その師を見ていて尚学べないんです。 つまり、伝えるだけの心が出来ていないと言って良いのでしょう。
私は、日本舞踊だからと言って特別なことではないのだと確信しています。 何故なら、誰もが嬉しいときに喜び、悲しいときに涙する。 怒れば手があがる等々みんな普通に経験しているはずなのに、日本舞踊は特別と思っているからではないだろうか。
日々経験している感情を感性で捉え、日本舞踊の基本に当てはめれば良いだけです。
結果、相手に伝わっているかいないかだけなんでしょうね。

波島が振つけしている様を見ることは出来ませんが、どの作品も不思議な力を感じます。
つまり、人として一番大切な心がその作品にあるからだと思います。 だから観衆の心を打つんですね。
今年、10月30日に浅草公会堂で波島陽子芸能30周年記念公演が開催されます。
私は今年がそのひとつの集大成だと思っています。 おそらく生徒さん全員が大きな拍手を受けることになるでしょう! それが波島の色だと思います。
教室の門を叩くとき、日本舞踊はお金がかかると思っている人が殆どです。 従って、生徒さんの中には昔他の流派で学んでいた人もいます。
この秋は浅草の大舞台ですが、現在の状況ではまだまだ5~6年は早いような気がしてなりません。
他の流派であればおそらくこの舞台に上がるのに1曲踊るだけでも50万80万はザラです。
波島はそう言った意味でも異端児なのかもしれません。
若い生徒さんが日舞に馴染むのにそんなに掛かるんなら通いないでしょう・・・ということです。
カツラをつけても7万~10万の範囲内と言うのは日本のどこででもあり得ない舞台だからです。 これが公会堂のような舞台でなければまだ安くなります。
言い換えればとても商売でしたら成り立たないということですね。 それでいてアットホームできっと参加される生徒さんにはたまらなく素晴しい舞台になるから不思議です。

踊りを通じ、心に触れながら学べる。 波島陽子だからこそ成し得るものだと称賛に値しますね。
全国各地からも参加される舞台。きっと相手に伝えることの舞台になると確信しています。
芸事のお世辞は効きません。 しかし、心で踊ることを覚えたらそれこそ財産になりますね。
舞台を観終わったみなさんが、ため息交じりに「今日の舞台は最高だった!」と毎回言ってくださいます。 観た人にしか分からないと思いますが、必見ですよこの秋は ♪
生徒さんも、なかなか体験できないこのチャンスを大いに満喫して欲しいですね ♪

 

 

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