本物の表現師

「波島陽子日本舞踊教室」、今この教室はまさに注目度No.1のお稽古場でしょう。

驚くほどに入会希望者が多い。 体験に訪れ、「即入会したい・・・」と瞳を輝かす
女性の多いことに日々驚かされています。
踊りに興味がない人でもきっと波島陽子の踊りを目にするとその意味が分かると思う。
今回は、一体どこが波島の凄さなのかについて話してみたいと思っています。

私は昔から東映の時代劇映画が大好きでおそらく誰よりも本数を観ている方だと思う。
子供の頃、父が東映映画封切館の支配人をしていた関係でとにかく意味もなく映画館で
遊んでいたことを覚えている。
まもなく時代劇(東映)の黄金時代に入る。ほんの少ししか出番の無い俳優。
また、斬られてすぐに死んでしまう俳優の名前まで覚えてしまいました(笑)。
当時の編集(時代劇)のその殆どが宮本信太郎だったことから「編集」に対する憧れ
みたいなものを持っていたのもこれらがキッカケだったと思う。
社会人になって高倉健や藤純子が活躍していましたがその頃は純愛路線に走りヤクザ
映画や時代劇からは少し遠のいて行きました。

しかし、本物の着物姿の仕草や振る舞いは毎日の母の着物姿から、子供時代の映画か
ら着実にその良さ(本物)を知り、身に着けていったんだと思います。

三船敏郎が世界に羽ばたいたサムライ辺りから私の印象は少し変わってしまいました。
豪快で激しい演技(サムライ)と東映の娯楽性からはその違いが大き過ぎたからです。
つまり、豪快さは間違うと美しさを失ってしまう危険性があるのです。ところが、当
時の東映が何故素晴しかったかだ!!
その典型があの大川橋蔵の美しさだろうと思う!!

言葉で表現出来ない華やかさがあり、それは美しかった。 中村錦之助もタイプこそ
違えその華やかさは娯楽映画を更に楽しいものとして私たちを楽しませてくれました。
三船敏郎の宮本武蔵。しかし、中村錦之助の武蔵は全く違った。 豪快でいながらど
こか惹きつけられる華が違うのです。
世界に「サムライ」・・・と、「三船」と名を馳せたがその魅力は東映のそれと違う。
日本文化を・・・と語るのであればそれは東映には適わなかった。
外国の人は三船のサムライを通して日本のサムライを知ったと言っても過言ではない。
しかし、それは日本人の心そのものが受け入れる伝統美からすれば遠く離れた作品だっ
たと思う。  歌舞伎を観て、お能や茶道に通ずる時代劇だとしたらやはり東映の時代
劇と言って良いだろう。 そこには日本を裏切らない美しさがあったからです。

私の周りに「殺陣」に取り組み頑張っている若者が沢山います。 いや、殺陣だけで
はない。 着物レンタルや着付けひとつとっても、そこには外見的なものと「お金」がま
とわりついているのが多く伺える。
つまり、姿形は浴衣をまとっているが「色」や「柄」「素材」や「着付」等々は私に言
わせると悲しいかな貧弱で粗悪なものが多い。
つまり、この外国人観光客に合わせて「商売」をしているからだ。 勿論、商売が悪い
訳ではないが、これでは本当の日本の文化が衰退してしまうという懸念だ。
外国の観光地に行くと良く見かける光景ですね! 爆買い爆買いと騒ぐ中国人に対す
る対応なども例えばそのひとつだろう。
仮に商品(薬や化粧品・電化製品)など知っての通り世界に誇れる物ばかりだから全
く問題ないのだが、要は販売する側の心の問題だ。
「おもてなし」などとまるでつい最近耳にしたかのように乱発しているが全く分かっ
ていないのだ。
これは先程東映の時代劇の話しに戻るのです。 つまり、美しさとは目に見えない内
面的なものであって、日本人でもそれが分からず「綺麗」であれば良いと思っている節
が否めない。 綺麗は着飾った外面的な要素が強く決して相手を感動させることはあり
ません。

私も外国人観光客に接する機会が多く、その都度質問しています。
「日本が何故そんなに素晴しいと感じるのですか?」・・・・と。 すると、「日本人は
親切」「優しい」「街が綺麗」「料理が美味しい」等々。
とても的を得た答えだと思います。 その通りだと思います。 つまり、街を綺麗に
するには、美味しいお料理を作るには、それぞれ相手に対する心がそこに無ければ決し
て美味しい料理にはなりません。 部屋を綺麗にしお客様をお迎えするのも、相手に喜
んで頂きたいとする一方行為(好意)にすぎないのです。 電車で並ぶのも道を譲って
あげるのも、「思いやり」からくる一方好意にすぎないのです。
日本人にも、特に段々世代が変わり若い世代になるにつれ自分さえ良ければの傾向が
強くなっているのも事実です。
何でもスマホを通し、ツイッターで等々、言葉を短縮し格好で交わす会話。懸念材料
ばかりです。
果たして上辺だけで本当の日本を伝えることって出来るんだろうか!? そう言って
もそれがどういうことかさえ若者は理解出来ないほど本物が薄れて行っているのです。

困ることは、そうであってもそれを若者が理解出来ないという現実です。
本物の美しさを知らず、例えば剣を手に殺陣をつけたとしても「本当の美しさ」は決し
てそこに顔を覗かせることは無いのです。
ところが、もっと困るのは、観る側(若者)が輪をかけてそれがカッコイイと思えば
それもありですが本当の日本の伝統芸や文化はどんどんその心を奪われ本物の影すら観
ることが出来なくなってしまうのです。
私の周りにも殺陣や踊りに関わる若者は沢山います。 先日、ある殺陣師と2時間ば
かりその本物について語り合いました。
すると彼は私の手ぶり等に目を白黒させとても驚いていました。 それは心の表現を見
たからなんでしょう。 ほんの一瞬であれ美しい表現は相手の心をゆさぶります。
これは、前述のように、私の経験や学んだ密度の濃さの違いでしかありません。
悲しいことに人間というのは自分と違う意見や生き方等を語られると、自分が正しいと
いう前提を外さないかぎり受け入れることはありません。
そうした人間は絶対と言って良いほど必ず成長が止まります。 それは無意識的に学
ぶという姿勢が無くなっているからです。

基本をしっかり身につけ、それで更に自らの境地を切り拓くのであれば分かります。
残念ながらその境地にほど遠い若者が「間違った夢」を追い続けていることに気付かな
いんですね。
一番分かりやすいのは、極端なことを言えば「自己満足の生き方」に一喜一憂してい
るにすぎないのです。 しかし、そう言うと中にはカッとなる若者がいます。間違いな
く自分が正しいとの思いこみです。

私の周りにいる若者にはせめて本物を伝えたいと腕まくりしても、偏った夢を砕くに
は相当の労力が必要です。

いろんな話しをしましたが、つまり波島陽子の素晴しさは「本物」であるということ
ですね。
それが多くの人の心に入り込み多くの作品提供につながっているんだと思います。
それでも波島は、「私より上手い人は沢山いますよ」・・・とどこまでも謙虚です。
芸というのはセンスも問われます。感受性・・・、感性と言っても良いかも知れません。
昔の時代劇に何を学んだかと言えば、なんと言っても「華」でしょうか? そして
「心」でしょうか? その華が楽しさを与えてくれるんです。 それが本当の娯楽なん
だと信じています。

どんなに演じても、相手に伝わらないのは決して「芸」ではありません。
従って、日舞でも殺陣でも相手にどう伝えるかが大きな課題だと思っています。だから、
日本舞踊などは10年も20年もかかるんですね。

  近年波島教室に入って来た20歳代の生徒さんに、稀にみる感性とそうしたセンスを
持っている女性3人にたまたま会いました。 だから、そう考えてみると若いから駄目
ではなく、平成生れでもその人の持つ心根で素晴しいものがあるということですね。
家元も唸っていましたが、これこそセンスなんでしょうね。日舞に限らず、スポーツ
でも芸術(ピアノ・絵画・芝居等々)は天才肌と努力の人に分かれます。
しかし、ここでも問われるのがその人の心根です。

私は、波島陽子をこう讃えています。

優しい心、想いやる心、敬う心、感謝できるこころ
そうした人としての優しさに羽織らせたいのがお着物だと言います
波島の日本舞踊が美しいのは、その心にあるといって過言ではありません
日本舞踊は心で舞ってこその伝統芸だからです
波島が作品を創るとき、生徒さんに教えるときのこだわりです

私が言うのではありません。 全国の波島作品の愛好者が、日々通う生徒さんの偽らざる嬉しい言葉(こころ)がそう言わせてくれるのです。
形も大切です。 しかし、形とは心でなければ本物でないということです。
大川橋蔵を、中村錦之助を、藤純子や花園ひろみ、大川恵子や桜町弘子に目を奪われた時代が懐かしいですね。私はこうした東映作品を約300本以上持っています。
本物を伝える為、ほぼ毎日観ています。 肌に沁み込んだ感性のようなものが、いつしか私にまでそのしぐさを教え込んでくれていました。
日本人が誇れる美しさ。まぎれもなくそれは心なんですね。
一度機会があったら波島陽子の舞台を観に来てみてください。
今年は芸能生活30周年記念の巡り合わせに10月30日(日)浅草公会堂でその舞姿を観ることが出来ます。