2025年6月3日 6時30分
日本中から愛されたミスタープロ野球の灯が消えました。
このニュースを知ったとき、正直それほど驚きませんでした。脳梗塞を患った時点で、「ああ、ミスター長嶋もそろそろなのだろうか・・・!!?」「その時の日本中の反応はどんなことになるんだろうか・・・!!?」
実は私も子供の頃に背番号3を選んで草野球に興じていた一人でした。この魅力は今の大谷翔平選手のそれに似て居ます。
上手く言えませんが、間違いなく不思議な「華」がありました。大鵬が大活躍すると、「巨人・大鵬・玉子焼き」・・・と言われる現象まで!!
実は私は平成元年頃から仕事の関係で「せんだみつお」さんと時々合う機会に恵まれ、そのせんださんこそが当時長嶋監督ととても好意にされていたんです。
私が長嶋が好きだ長嶋が好きだの連発に、当時確か1992年だったと思いますが、バルセロナオリンピック日本柔道71kg級で金メダルを獲得した古賀稔彦選手の祝賀会が都内の某ホテルで開催されることになりました。
その席に特別来賓者として当時・巨人軍監督の長嶋さんが招かれているから紹介してあげるよ・・・!!!?? と。
信じられないほど驚いたことを昨日のように覚えています。ミーハーでしたね(笑) カメラに色紙を5枚ほど持って上京。そのときがやって来たのです。
会場は立食でしたが、そうそうたるメンバーが・・・。この祝勝会は日本テレビが生放送とあって私が生まれて初めて見る光景でした。
時間ギリギリになるとせんだちゃんが、「では迎えに行きましょう・・・」と正面玄関に。待っているとベンツが到着。あの長嶋茂雄が目の前に。
「私はどうすればいい!!?」とせんだちゃんに問うと「岡ちゃんとぼくとで両側をガードしながら行きましょう・・・・」。それは水戸黄門のさしずめ助さんと格さんのような道中でした!!
司会者の紹介に監督が呼ばれました。すると大扉が開きスポットライトが!!
一番前の円卓まで経験のない緊張でした。出席者の殆どが「あれは一体誰だ・・・・」だったようです(笑)。
だって、せんだみつおや長嶋監督は誰もが知ってますからね・・・(笑)
パーティーは順調に進み、鏡割りや監督の挨拶が終わるとせんだちゃんが監督に「監督、少し休憩しましょう!?」・・・と促し、我々3人は会場隣の特別室(監督の控室)へ。
今まで面と向かって見れなかった長嶋監督。広い控室でも監督とせんだちゃんと私の3人だけ!! なんて贅沢な空間なんだろう・・・。
しばらくするとせんだちゃんが、「監督、改めて紹介します・・・」と言って直に私を紹介してくれました。
「長嶋です・・・」、このひと言は今でも忘れません。握手したその手はいかにもスポーツマンの手だった。
とにかく不思議な華がありましたね!!! 私の憧れの長嶋が、背番号3がここにいる!!!
あまりの身近さに、「監督は握力どのくらいあるんですか・・・!?」何を言ってるんだろう・・・!?
すると監督は「77~8かな・・・・!?」と。監督に勝った\(^o^)/・・・とつい本音が。「私82あるんです・・・」
確かに器械体操やっていたからだと思うが監督にひとつだけ勝った(笑)
サインをして頂いたり、記念写真を撮ったりとこのときばかりは監督を独り占め(笑)
私が制作会社を営んでいるとせんだちゃんがいろいろ説明してくださり、監督に「岡ちゃん、これからは福祉について大切な時代が来ると思うよ・・・」野球監督からこんなアドバイスを頂けるとは思いもしませんでした。本当に私には生涯の記念であり宝物になりました。今更に「せんだちゃんありがとう」です。
考えてみたら、私は長嶋茂雄以来ずっと巨人の虜でした。今考えると藤田監督時代、2月のキャンプを会社の慰安旅行と決め、毎年グアムまで追っかけていました。
監督がユニフォームを脱ぐ瞬間には立ち会えませんでしたが、1974年10月14日の引退試合はテレビに釘づけ。
「今ここに、自らの体力の限界を知るに至り、引退を決意致しました。我が巨人軍は永久に不滅です・・・」
この挨拶に日本中が涙したんですからヒーロー中のヒーローでした。
人気もさることながら、その記録も記憶に残る活躍ぶりでした。
MVP 5回 リーグ優勝13回
首位打者 6回 日本一11回(V9を含む)
打点王 5回 通算打率 .305 444本塁打
本塁打王 2回 監督通算1034勝
監督生活15年
1992年のドラフトで4球団競合で松井秀喜を獲得
しかし、これだけのスポーツマンでも病には勝てなかったのです。
2004年のアテネオリンピックに監督として登場が決まるも、その寸前脳梗塞で倒れてしまったのです。
嘘かと思いましたね(涙)
私には心にぽっかり穴が空いてしまったようで・・・。
勿論、国民栄誉賞が待っていましたが、痛々しい姿に涙を抑えられませんでした。オープンカーで松井秀喜と国民栄誉賞を受賞したのが2013年でした。
忘れもしないあのコロナ下の中で開催された東京オリンピック。2021年のこの映像はテレビを録画しました。王と松井を従いあの長嶋が聖火ランナーに。
痛々しかった。
この頃、「もう一度フアンの前に立ちたい・・・」とする長嶋茂雄の痛々しい姿。言葉も心もとなくなって・・・
それでも一生懸命リハビリする姿が。
考えてみたら、長嶋茂雄は人を喜ばす名人だった人でしたね。これはとても大切なことです。「魅せるんだ・・・」 同じ三振でも漫画で描けるほどダイナミック(写真)。少しだけ大き目のヘルメットをかぶっていたというからさすがです。
ご存知のように、長嶋のデビューが散々だったことは余りにも有名でした。400勝投手金田が、鳴り物入りで入った長嶋茂雄をなんと4打席連続三振。この間バットにボールが当たったのはたった1球だったと言われて居ます。
スターたる由縁は
入団の年、打点92 本塁打29本 の2冠!!
その翌年の1959年6月25日
なんとプロ野球初の「天覧試合」 阪神戦でしたが、なんと陛下が退席される4分前だったそうです。9回にサヨナラホームランでゲームセット。それもあの村山投手から!!! 持っている人間は違いますね。
敬遠と判断するとバットを持たずに打席へ!! ホームランを打つとスキップしながらホームへ。スローイングの美しさは草野球で流行ったようです。
2001年に監督引退時
「野球とはですね、人生そのものだという一言に尽きると思います。」
現在、その長嶋茂雄をも抜き去らんとするヒーローが登場しました。長嶋茂雄に負けず劣らずの好青年「大谷翔平」
私たちは間違いなくこうしたヒーローによって頑張れているんだと思います。
奇しくも、89歳の生涯は、この89が野球と読めるから不思議です。
2025年6月3日 6時30分 ゲームセット
合掌